2023/11/07
ワーゲンさんぽ#31
みなさま、こんにちは今回のブログはワーゲンさんぽです!備中高松城址資料館に取材してきました。
「本能寺の変」ご存じの方も多いと思います
1582年、早朝、 明智光秀 が 謀反 を起こし、
京都 本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件です
その歴史的な「本能寺の変」の裏話が岡山の地にあったとしたら・・・?
興味深くないですか?
その物語が北区高松にある備中高松城址資料館にあります
とても興味深く、歴史って楽しい!面白い!もっと知りたい!となりました
旧資料館
「高松城水攻め」についてよくご存知な方も、よく知らないなぁーという方も
ぜひこのブログをご一読くださいあなたもきっとハマるはず
"天下布武"(織田信長が武力を以って天下を取る)の旗印を掲げて
全国制覇を進めていた織田信長は
中国地方の担当武将に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に命じた。
その秀吉に立ちはだかったのが毛利氏です。
毛利側の防衛ライン上にあった
宮路山城〈みやじやまじょう〉、冠山城〈かんむりやまじょう〉、加茂城〈かもじょう〉
日幡城〈ひばたじょう〉、松島城〈まつしまじょう〉、庭瀬城〈にわせじょう〉を
秀吉軍は次々と落としていったが、
本城の「高松城」だけはどうしても力攻めすることができませんでした。
そこで、黒田官兵衛の提案で「水攻め」に取り掛かりました。
つまり、川をせき止め、その水を敵の城・周囲に導入し孤立させる方法です。
堤防を築き、足守川の水を引き入れ、高松城を湖の湖城にしたのです。
現在も堤防の址が残っています。
毛利勢が手を出せないままでいる中、6月2日に本能寺の変で
織田信長が家臣 明智光秀の謀反により殺害されました。3日、信長の死を知った秀吉はそのことを隠して高松藩主・清水宗治の切腹を主張して
講和を結ぶように説きました。
そして、6月4日 清水宗治(当時:46歳)は
五千の城兵と毛利家を救うため、湖上に舟を浮かべて自刃し、
織田方と毛利方の和睦が成立しました。
これが、「高松城水攻め」です。
清水宗治の男気、かっこいいですよね自らが盾となり、まさに命をかけて城兵たちを守り抜いていった勇姿が
今もなお語り継がれているそうです
宗治の辞世句ここで、この出来事についてもう少し深く掘り下げていきたいと思います1.なぜ水攻めなのか?他にも考えた策略があったのか?→「兵糧攻め