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2020/06/06

フォルクワーゲンのお話し。ポルシェ博士の功績とお孫さん。

フォルクスワーゲンの生みの親であるフェルディナンド・ポルシェ博士は、1875年に旧チェコスロバキア領の北ボヘミア地方で誕生しました。 幼い頃から電気や機械に優れた才能を発揮し、国立工業学校を経てエンジニアとなった後は、複数の企業で電気自動車や電気とガソリンのハイブリッド車などの開発に携わりました。 フォルクスワーゲンブランドの持つ"革新性"の原点ともいえる技術を構築していったのです。 1930年に自身の設計事務所を設立したポルシェ博士は、「大衆のための実用的かつ進歩的な小型経済車の製作」という夢へ情熱を傾け、1934年にはドイツ政府に「国民車構想」を提出しました。

それは、

・5人家族が安全に乗れ、乗り心地と操縦性に優れていること。

・車内とトランクスペースが十分にあり、無駄な装備がないこと。

・修理が簡単であること。

・最高速度を犠牲にせず、十分な速度と登坂能力をもっていること。

・ボディ形状を1種類に限らずバリエーションが豊富であること。

というものでした。

この国民車構想は、当時のドイツ政府の目に留まり、その支援を得ることになったのです。 その後ポルシェ博士は潤沢な資金援助により、VW3、VW30というネーミングの試作車を次々に開発。1938年に最終プロトタイプが40台製作されVW38と名付けられました。このプロトタイプはビートルとほぼ同じ完成度を実現しました。 試作車の開発では、250万kmにも及ぶ過酷な走行テストなどを実施、現代のフォルクスワーゲン車の大きな特徴でもある「信頼性」や「耐久性」が、この時点ですでに確立されていたことがわかるのです。

フェルディナンド・ポルシェ博士の誕生から11年後の1886年、ゴッドリープ・ダイムラーとカール・ベンツにより世界初の自動車が発明されました。その後自動車産業は急速に発展をしていきますが、当時は一部の上流階級だけに許されたものでした。一方アメリカでは、1908年にヘンリー・フォードが世界初の大衆車であるT型フォードを開発、世界中にセンセーショナルを巻き起こしました。これに刺激を受けたドイツの技術者たちは、小型で廉価な大衆車の量産が必要であると認識し始めましたが、その後しばらくは実現には至りませんでした。このような事態を打開したのがポルシェ博士であり、彼が掲げた国民車構想により、ドイツの大衆車はようやく実用化に向けてスタートを切ったのです。 生産計画では、アメリカが採用している量産方式が必要で、それを学ぶためにポルシェ博士は1936年と1937年に渡米。フォードの工場を視察するとともに、鋼板・溶接・工作機械などのスペシャリストでありドイツ生まれでアメリカ在住というエンジニアを複数雇い入れました。このようにしてポルシェ博士が生み出したフォルクスワーゲンは、ドイツ国内はもとよりヨーロッパ全土を席巻。フォードにより一歩先んじていたアメリカとの差を一気に縮めることに成功したのです。

*ポルシェ博士の右側の少年は幼少期のフェルディナント・ピエヒです。(ポルシェ博士のお孫さんにあたります)
フェルディナンド・ピエヒは大学卒業後、ポルシェに入社。しかし、同族経営排除で退社するとメルセデス・ベンツでコンサルタントをしたあと、アウディへと入社。そして、1993年にグループの中核であるフォルクスワーゲンの社長となり後に会長に就任しました。フォルクスワーゲン社長就任以前から、アウディの「クワトロ」と呼ばれる4WDシステムや、直列5気筒のエンジン、オールアルミボディーなど、ユニークなアイテムの開発を次々に手がけた敏腕エンジニアとして名を知られ、さらにはベントレーやブガッティ、ランボルギーニなど、欧州の名門ブランドを次々と手中に収めることで現在の“VW帝国”へと続く道筋をつけた、希代の経営者しても評価されました。
「ポルシェ創業者で、初代“ビートル”の生みの親でもあるフェルディナント・ポルシェの孫」という血統のよさと、前述のような優れた技術者としての功績が称えられましたが 2015年に監査役会会長を退任する事となりました。

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